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ゲバラがジュネーブに蒔いた種〜ジャン・ジグレールは語る−2008年11月

Jueves 27 de noviembre de 2008, por ebita

Noviembre 2008: "Algo ha cambiado" - Entrevista a Jean Ziegler
Original es
イラスト W oznia k

16時26分:ブリュッセル、フラジエ広場

10月の雲一つなく晴れ渡った日に、僕たちはジャン・ジグレールと会う約束をしていた。僕たちは2007年に一度会っていて、その時彼は“«We Feed The World» [1]という映画の封切りにやって来ていた。この映画の中で、彼は当時のネスレの社長に対して反論をぶつけており、その中で彼が語っていたことが僕たちにとってはとても重要なものに思えた。だからこそ、僕たちはその一部をラジオチャンゴの2枚目のコンピレーションに入れるリミックスに入れることに決めたのだった [2]。

怪物の頭脳

1964年、実習中の青年弁護士だったジャン・ジグレールは、ジュネーブにあったキューバ人組織とコンタクトを取っていた。スイスの首都で行われる砂糖に関する首脳会談に出席するために代表団が到着することになっていたのだが、キューバの外交官はジュネーブにいなかった。それで、彼がキューバ島から来る代表団のガイドを頼まれたのだ。ジグレールは何も知らずにそれを引き受け、ジュネーブの街中や首脳会談と代表団を指揮するチェ・ゲバラに随行することになる。代表団がジュネーブを去る前夜、ジグレールは我慢できずにチェに、彼やゲリラと共に闘うために一緒に連れて行って欲しいと頼みこむ。チェはその申し出を単刀直入だが丁重に断ると、街を眺めながら彼に向かってこう言った。“見ろ。ここに我々が立ち向かっている怪物の頭脳があるんだ。”
ジャン・ジグレールは、チェがあの日に彼に伝えようとしたことを理解するまでに何年かかかったと認めている。
それから何十年もたった今、僕たちは副司令官の助言に忠実な彼の姿をこの目で見ることができる。

新しい著作

彼の経歴を見ると経験豊富なことが一目瞭然だ。社会学教授、作家、代議員、国連食糧問題に関する特別委員…と尽きることがない。
彼は、プレッシャーや攻撃、価値観の違い…といったものにも怯んだりはしない。最近得票数の票の大部分を南側の国から集めて、国際連合人権理事会の委員に再選されたばかりだ。“スイスの一票のお陰ではないよ”と微笑みながら言い添える。
前著作«El Imperio de la Vergüenza(恥辱の帝国)»の出版した後、この秋に彼はもう一つの著作を携えて還ってきた。それは«La haine de l’Occident(西側への怒り)»(Editorial Albin Michel)という挑発的なタイトルの告発本で、その中で、ジャン・ジグレールは再び、分析し、問題を提起し、語り、告発をしている…。

というわけで、今月の僕たちのEditoのお客様はジャン・ジグレール。では、お楽しみください!

闘いは続く!

El Matanzas

ラジオチャンゴ(以下R):この著作«La haine de l’Occident(西側への怒り»)はどのようにして生まれたのですか? ジャン・ジグレール(以下J):8年に渡って私は国連の食糧問題に関する特別委員を務めました。現在は国連人権理事会諮問委員会(国連人権高等弁務官事務所)のメンバーです。この委員会には47カ国が参加しているのですが、参加国の間に深い断絶があるのが明確に見てとれます。南側諸国の大使たちは、西側の二枚舌を拒絶しています。西側諸国の要求を全面的に拒絶しているのです。彼らは現在、奴隷制度や植民地化―不思議なことに再び姿を現しつつありあります―のような根本的な問題に関して、自分たち自身の記憶を取り戻しているところなのです。そして、このことは彼らにとって歴史上重要なパワーなのです。ここから、分断が生じ、国際的な共同体に亀裂が入るのです。
著作の冒頭で、ジュネーブでのある夜に、スリランカ大使である素晴らしい女性サララ・フェルナンドと交わした会話を例として上げました。彼女はオックスフォードで教育を受けた仏教徒で、大変な教養と知識を持った方です。私たちは共にアイルランド大使の邸宅を後にしました。そこではヨーロッパ、カナダ、オーストラリアの大使が集まっていたダフールで起こっていることについて話し合っていたのです。この恐ろしい大虐殺は、オマル・バシル将軍のイスラム政権がサグワ族、フール族、マサリ族といったアフリカ民族に押しつけているものです。この紛争によって3年間で30万人以上が命を落とし、すでに2200万人が中央アフリカのチャド共和国に移住しています。ヨーロッパ各国の大使の提案は、ブルーベレー [3]を送って、ハルツーム州で傭兵が行っている凄惨な暴力行為と殺戮に終止符を打とうというものでした。ダフールの惨状を知り尽くしていたスリランカ大使―私たちみんなと同じように心を痛めているこの女性―は、この大虐殺とそれが原因で手足を失った何千という子供たち、強姦された女性たち、燃やされた土地や作物に、身の毛もよだつ思いだったのでしょう。そして、突然怒りを爆発させたのです。“一体何の権利があって、ドイツやフランス、英国の大使がアフリカの国家元首を戒めるというのですか? それが犯罪行為であればなおのことです。一体何の権利があるのですか?”
夜空の下、エルミタージュ通りを歩きながら、彼女は植民地化が引き起こした一連の惨事について一つ一つ語り始めました。“イギリス人たちがインドに到着したときに、何をしたのかご存知ですか? 老若男女全ての人々の指を切り落として、彼らの地場産業である繊維を織り続けることができないようにしたのですよ。そのせいで、彼らはマンチェスターから英国製繊維を輸入せざるをえなくなりました。彼らは何百万人という人々の指を切り落としたのです! 彼らがセイロン島やスリランカに着くやいなや、何をしたかご存知ですか? 何十万ヘクタールという耕作された丘陵―そこでは何百万人もの農民が家族と共に暮らしていました―を«waste land不毛の土地(無人地帯)»だと宣言したのです。彼らを追いやって紅茶のプランテーションを導入するために。”当然のことながら、追い出されたこれらの農民とその家族は自分たちの土地や生産手段を奪われて、山中のどこかで餓え死にしたのです。そして畳み掛けるように続けました“一体何の権利があって、ドイツの大使に人権を語ることができるというのですか? 人類の半分に対してあんなことを行なった後で。”

この瞬間に私は、彼女がただ自分の国のことだけを話していたのではないことに気が付きました。大多数の―ほとんど全てといってもいいでしょう―大使たち、アルジェリア大使やセネガル大使、パキスタン大使などは、現在のところ、このような見解を共有しているのです。西洋人は完全に信頼を失ってしまいました。不思議なことに再び浮び上がってきている植民地や奴隷制の記憶があるからというだけではありません。彼らは、グローバル化した資本主義のことを、500年前に西洋人がこの惑星に押しつけた抑圧が辿り着いた最新で最も暴力的なシステムであると見ているからなのです。しかし、現在では白人は、全世界の人口のたった13パーセントを代表しているに過ぎないのですよ。

R : あなたは著作の中で、植民地の末期に彼らは土地を手放したものの、システムはそのまま放置され、現在も存続していると書いています…。

J : その通りです。私の友人レジス・デブレ [4]“彼らはヘルメットを外したものの、頭の中は植民地時代のままだ”と言っています。この通りのことを私はいつも国連総会の場で目にします。傲慢…。私が本の中で説明しているのは、このことなのです。2007年にサルコジがダフールに行ったとき―それは彼にとって初めてのアフリカへの旅でした―植民地化を正当化して態度を変えませんでした。そしてこう言うのです。“ご覧下さい。私たちは何千という道路を造り、何千という学校を建設しました。植民地化は恩恵をもたらした冒険だったのです…。”それに対してアフリカ人はこう応えます。“マダガスカルで1947年に起きた蜂起の間に、君たちは8万5千人もの男や女、子供を虐殺したよね。セティフでは1945年5月8日に大虐殺を行なったね。犠牲になったのは非武装のデモ参加者5万2千人だ。アルジェリア戦争の7年間で200万人が犠牲(殺害されたり、負傷したり、行方不明になったり)となった。外国の政権に虐殺された何千というアフリカ人の命で、何キロという道路を買ったなんてほざくのは、全くもって慎みのない話だ!”
その後、サルコジはある貿易協定に署名するためにアルジェリアに行きました。ブーテフリカ大統領は、交渉の席に着く前に、セティフでの虐殺を持ち出したことを謝罪しました。サルコジは、あれは“ノスタルジー”で、セティフで何が起こったのかは、正確には誰にもわからないのだと応えます。ブーテフリカ大統領は“もしそうであれば、お引き取りください”と応え、協定は解消となり断交が始まりました。
これはまったく新しい動きです。再発見されたアイデンティティーが歴史上重要なパワーに変容したのです。ボリビアでは解放への力となりました。この500年間で初めて2006年1月1日に、民主的に選ばれたアイマラ族の農民エボ・モラレス・アヤマが政権に就いたのです。彼はこの2年間で、以前は外国人によって開発されていたボリビアの油田やガス田、鉱山といった一連のものを取り戻しました。

R : あなたの本を読むと、こんなにたくさんの情報量があるのに、ここ西側のマスコミがこういったことについてほとんど取り上げないのはなぜだろうという疑問が湧いてきます。

J : レジス・デブレは“今日では歴史上初めて、出来事と出来事を語る言説がすべて、同じ人々によってコントロールされている”とぴったり言い当てています。言い換えると、植民地化の最終段階は、植民地時代の歴史の植民地化だということです。人口の大多数は一般の人々なのは事実です。しかし、結局のところ、この世界をコントロールしている、つまり金融を牛耳っているのは、ごく少数の権力者たちで、世界を統治する彼らの手法は犯罪的になる一方です。毎5秒に1人の子供が餓えで命を落としています。毎日10万人が餓えや、それが直接の原因で命を落としています。9億2300万人、つまり地球上の6人に1人以上が、慢性的に深刻な栄養不足の状態にあるのです。現在の技術レベルの農業で、今日地球上にいる人口の2倍を養うことができるというのに。毎日繰り返されるこの殺戮は宿命などではありません。こうした犯罪的かつ不条理な規律で私たちを統治している多国籍企業の果てることのない欲望は、宿命的と言えるのかもしれませんが。明らかに、この規律の中では、この規律を語る言説は非常に厳しくコントロールされています。
フランスのマスコミを見れば、チャベス、フィデル・カストロ、そして今はエボ・モラエスについて語られていることは、飽くことのない中傷以外のなにものでもありませんよ! ル・モンド紙は、論説的な新聞になろうとしていますが、ボリビアに関する記事を読むと事実の誤認と嘘で固められています。彼らが語っているのは、私が訪れてこの目で見た国のことではありません。
チャベスと彼のボリビア革命は、植民地化が始まった頃から脇に押しやられて、極限的な貧困状態にあった何百万という人々の生活を変えました。
フランスのマスコミにおけるキューバに対する中傷ときたら、全く桁外れです! こういう状況にあれば、西側に対するこうした怒りを西側から感知できないのは不思議でもなんでもありません。ここで私が話しているのは道理に基づいた怒りのことであって、病的で何の容赦もないテロリストたちの怒りではありませんよ。

R : 特にイラク戦争以降、多くの人々が国連に対して筋の通った悲観を抱いていますが、このことについてどんな見解をお持ちですか?

J : 国連とは192の加盟国を指します。政治的任務を持つ一つの国連があって、22の専門化した機関があります。WHO(世界保険機関)、FAO(国際連合食糧農業機関)、WFP(国連世界食糧計画)、ILO(国際労働機関)などです。こういった機関は、その限定された専門分野においては素晴らしい働きをしています。WFPは、国際市場での基礎的食物価格の急激な上昇によって―これは“バイオ”燃料と農作物に対して行なわれた投機が原因です―資産と“購買力”の40パーセントを失いました。にもかかわらず、昨年はこのプログラムで7100万人を養うことができました。9億2300人もの人々が栄養不足の状態にあることを考えるとほんのわずかであるとも言えますが、それでも、彼らは自分たちの任務を行なったのです。
しかし、国連の政治的な部分、そのシステムの中枢が深刻なダメージを受けていることは明らかです。国連は三つの理由で創設されました。1945年6月にサンフランシスコで結ばれた条約において、形作られ遂行された三つの使命です。第一は集団安全保障です。地球上に集団安全保障を組織すること、つまり“予防的な”で野蛮な戦争を根本的に禁止することです。世界平和が脅かされた場合には、仲裁や集団的介入によって集団安全保障システムを確立しようとしたのです。第二は人権の促進です。人権、つまりは市民的及び政治的権利だけでなく、経済的、社会的及び文化的な権利も含めて、地球上の人類全てと不可分なものなのです。こうしたものは全て普遍的で相互依存的なものであると同時に個人的なものです。そして第三の任務が国連、つまり、地球的規模の社会的正義の創設で、奴隷制や植民地化によって破壊された国々に対して、技術や資本の移転をすることでその発展を支援しようというものです。これら3つの任務に関しては、今国連は機能していません。
集団安全保障という表現で、2003年に国連の調査団がイラクに到着し大量破壊兵器を探し出そうとしましたが、何も見つかりませんでした。安全保障理事会は、西側からの攻撃に対してはどれにもゴーサインを出しませんでした。ブッシュ大統領は“国連など私には関係ない。私は予防戦争をやるし、イラク国民を大虐殺するさ。”と言いました。そして、よく練られた組織的な方法でそれを実行しました。この予防戦争によって国家安全保障が台無しになったのです。国連にとっては完全な失敗でした。
二つ目の大失敗は人権問題です。アメリカ大使が人権理事会において民主主義について語る一方で、アブグレイブやグアンタナモにおいては拷問によって、疑わしいケースで数十人、そうかもしれないと思われるケースでは何百人が死んでいるのです。その話に信憑性などあるものですか。フランス大使がアフリカの人権や食べる権利について語る一方で、フランスとその他のEU加盟国はダンピングを使って農業を編成しているのです。生産過剰作物に補助金、ヨーロッパの農業生産物の輸出に補助金といったように。それを支援しているのは誰でしょう…。ダカールでは、フランスやスペイン産のフルーツや野菜を、地元の農産物の半分の価格で買うことができます。そう、私たちがアフリカの農業を破壊しているのです。フランス大使が食べる権利を普遍的権利のごとく語ったとしても、南側の外交官や人々にとってはまるで信憑性に欠けるのです。もはや彼らはこうした二枚舌を許さずに、西側に立ち向かっています。

R : あなたの著作で、ボリビアが例として上げられています…

Z : ボリビアはスペイン人による大虐殺に苦しめられました [5]。本にはこう書いてあります。恐ろしいことに、住民の63パーセントはインディオであるにもかかわらず、1825年の独立以来、沈黙と100パーセントの搾取を強いられているインディオの共同体は1万2千もある。アルティプラノ(アンデス山脈の高原地帯/標高4000メートル)においては、貧困は世代から世代へと受け継がれ、オリエンテ地方ではサンタ・クルスの大農園において奴隷労働が続いていた。
ところが、今、初めて、何かが目を覚ましたのです。社会学者が観念的説明や分析的な説明を見つけられない場合、分析的理性が追いつめられた場合には、それを受け入れるしかありません。誰にも説明ができないのです。このことを私はこの目で確かめました。エボ・モラレスの旅に何度も同行しましたが、これは驚くべき謎です。沈黙、屈辱、恥辱、そして抑圧や餓えの500年を越えて、一つの動きが起こったのです。すべては、サンチェス・デ・ロサーダ政権下の水を巡る戦争から始まりました。この泥棒大統領は、外国に対して何も売ることができなくなると、飲料水を売り始めたのです。民衆蜂起が勃発しました。軍隊は発砲し、散弾が飛び交いました。しかし民衆はすでに立ち上がっていたのです。この反乱によってロサーダは逃亡することになりました。ひ弱な副大統領が政権を握り、その後に選挙となります。この選挙において、全く無名の人物が候補者として浮び上がってきました。コカ栽培を生業とする農民、エボ・モラレスです。
彼は労働組合活動家の友人たちと共に権力の座に就きます。彼は何をしたのでしょうか? 最初の6ヶ月間で国の財産を全て取り戻したのです。エボ・モラレス以前には、ボリビアは、ハイチに次いでラテンアメリカで二番目に貧しい国でした。しかし、政府は国際的グループ企業(シェル、エクソン、トタルなど)に対して、公益会社となること、収入の分配を定める規則の変更することを強制しました。ほんの一例ですが、エボ・モラレスが政権に就く前は、油田開発を行なうこうした石油関連企業が収入の95パーセントを手にしており、ボリビア政府の収入は5パーセントでした。“エネルギー統治権再編”後の約220に及ぶ公共事業関連の契約書への署名を通じて、現在では政府が収入の82パーセント、外国企業が18パーセントを手にしています。こうして国庫に入る何億ドルという大金を使って、エボ・モラレスは戦車や戦闘機を購入したりも、スイスに個人口座を開設したりもしませんでした。そうする代わりに、立ち上がった民衆の支援を受けて、一連の農業改革や“栄養失調0”計画、基本的医療システムの創設に着手するのです。
こういったものが全て非常に危うい状態にあることは事実です。西側の新聞を読むと、オリエンテ地方の低地において、農地を譲渡しなければならなくなった人々の動きについて書いてあります。こうした動きはかつてのナチ党員に支援されています。というのもその息子たちが現在の大土地所有者なのです。サンタ・クルスはかつてオデッサ [6]の中心的な隠れ場所だったのです。
本の中で1994年8月、下船から2ヶ月後に、ヒムラーはストラスブルクにドイツ産業の大企業(シーメンス、フォルクスワーゲン、クルップなど)の幹部、ゲシュタポやSS(親衛隊)の主要な上層部を召集したことを書いています。

SSは怪物の集まりでしたが、インテリ集団でした。あの試みが終末を迎えたのを見ると、“第四帝国”と身を隠す場所の中心地を組織したのです。南大西洋のさらに先に。とういうのも、テヘラン会議以降、チャーチルとルーズベルトはいかなる政府との交渉もきっぱりと拒否しており、行なわれた犯罪行為は補償の対象になることも知らされていました。SSは自分たちが罪を免れることができないとわかっていたので、逃亡を企てました。黄金とダイヤモンドを積んだ潜水艦が、ボリビアの河港プエルト・スアレスに向かいました。自分たちの財産を運びつつ、最悪の犯罪者たち(メンゲル、アイヒマンなど)を避難させたのです。捕らえられたのはただ一人(アイヒマン)だけです。バルビー、“リヨンの死刑執行人”、ジャン・モリンを殺害した人物、イゾーの息子でもある人物は、ボリビア国家警察の責任者だったのですよ! エボ・モラレスの到来まで、ナチがボリビアのシークレットサービスをコントロールしていたのです。彼らは、ルーマニアの鉄十字勲章 [7]を受けたウスタシャ [8]の息子たちで、彼らの祖先と同じイデオロギーを持ち続けています。こうした人々が、エボ・モラレスに対する反対運動を組織しているのです。
ボリビアの状況は危ういという人々に対して、私は“何かが変わったのです”と応えます。今日、エボ・モラレスが殺害される可能性があるのは明らかです。技術的には可能です。チャベスを殺害することが技術的には可能なように。しかし、もしそんなことが起これば、その後30年間に渡って西側から誰もボリビアに入国しなくなるでしょう。油田が発見されても開発は不可能になり、鉱山の採掘は止まり、外国の多国籍企業が利用できる産業はなくなるでしょう。そして大混乱となり、継続して蜂起が起こる状態になるでしょう。だからこそ、エボ・モラレスはまだ生きているのです。だからこそ、ウーゴ・チャベスはまだ生きているのです。
1981年にエクアドル大統領ハイメ・ロルドスは国有化法を使って油田を取り戻そうとしました。そんな彼が妻や側近たちと一緒に乗っていた飛行機が、飛行中に爆発したのです。もし今日似たようなテロ行為が計画されるなら、完全なカオス状態となり、巨大企業たちが資源を開発し続けることは不可能になってしまうでしょう。自分たちが得た利益の82パーセントを立て直し中の国家に提供してでも、彼らが開発を続けているのは、それでも充分に元が取れるからなのです。
ベネズエラでの出来事は大変興味深いものです。ヨーロッパにおいてはほとんど見過ごされてしまいましたが。それが起こったのは、2002年の春のことで、CIAに遠隔操作された軍人がカラカス中心部にある大統領邸宅ミラフロールの内部に侵入したのです。こういうと、とても卑劣な感じがしますね(笑)。この軍人たちは、選挙で選ばれた大統領の警護隊を自分たちの側に取り込むことに成功していました。チャベスを誘拐すると辞表に署名させるためにベネズエラ領にあるカリブ海の島に彼を連れて行ったのです。アジェンデ [9]の再来にはしたくなかったのです。今日においてアジェンデの存在は1973年当時より鮮烈なのですから。それで彼に辞任を勧めて幸福な亡命生活を約束しました。48時間に渡って、カラカスのスラム街がある高台から、静かにそして穏やかに下りて来た何十万人という貧しい人々が、首都の富裕層が住む地域を占拠したのです。この瞬間に、アメリカン人たちは失敗を悟りました。ヘリコプターでチャベスを、彼の大統領邸宅、民主的に選ばれ法的にも正当な大統領ウーゴ・チャベスの邸宅に連れ帰ったのです。

西側と、その“服従者”たち、南の“奴隷”たちの間で何かが変わったのです…。こうした民衆は、自分たちの記憶、つまりアイデンティティを取り戻しました。彼らは西側つまり、500年以上も前から世界で浪費されて来た、普遍的なものだと推定されるこういった価値観とは完全な絶縁状態にあるのです。

ブリジット・フォレスティーユに感謝を込めて。
このインタビューが実現したのはCachou K の計り知れない手助けと助言のおかげです。

                     :: El Matanzas feat trad ML ::

Portafolio

ジャン・ジグレール

Notas

[1] オーストリア人アーウィン・ワーゲンホッファー監督のグロバリゼーションが食糧生産に与える影響を扱ったドキュメンタリー映画

[2] «RadioChango Añejo Reserva 7 Años»の17曲目に収録された SELECTOR MATANZAS feat. JEAN ZIEGLER & SANKARA のFOOD CLUBのこと。曲冒頭から使われているのがジャン・ジグレールの演説。内容は拙訳«食べる権利を護れ!Ⅱ〜ジャン・ジグレール氏へのオマージュ−2008年7月-»を参照ください

[3] 国連PKO部隊

[4] フランス人ジャーナリスト。1960年代にはキューバのハバナ大学の哲学教授ではゲバラの友人でもあった

[5] チェ・ゲバラはボリビアのイゲラでアメリカ政府の支援を受けたボリビア政府軍に捕らえられ処刑された

[6] 元ナチス親衛隊隊員たちの地下組織

[7] ドイツの勲章。ヒトラーが再制定して、多数の将校に授与した

[8] 親ファシストでヒトラーの援助を受けていたクロアチアの民族主義団体

[9] サルバドール・アジェンデは、ラテンアメリカ初の選挙で選ばれた左派大統領となるが、1974年9月11日にピノチェト将軍のクーデターで殺害される。ラテンアメリカで「9.11」はチリのクーデターを指す