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メスティソ・ロック史〜Música sin papeles(紙なしの音楽)〜

月曜日 2008年8月4日, によって ebita

2005.06.10 

元記事http://www.radiochango.com/castella...

 一つの世界に入り込んだ三つの世界が、新時代のパンク吟遊詩人の役割を務めている。この地区は音楽で溢れている。アフリカ、アジア、そしてラテンアメリカ…。三つの大陸がバルセロナに入り込んで、地元の音と混ざり合い、リマスターされ、そして輸出向きのフォーマットになる。メスティソ・ロック・ブームは、遅かれ早かれワールド・ミュージックの概念を変えることになるだろう。NOは一週間の間その絡み合った音の中に潜り込んでいた。NOはそこに居残ることはできなかったが、ここでその話をしてくれるだろう。

バルセロナから

 ゴシック地区は身を隠すのに理想的な場所だ。道は細く、厄介なほどに曲がりくねっている。モロッコ人はサワルマやケバブを売り、カタルーニャ人の女の子たちは砂浜でトップレスになって日光浴する前にここを通り、セネガル人はアフロ・ミュージックをラップし、アルゼンチン人はツーリストが横切るこうした中世のちっぽけな通りを利用して、散歩をしたり、ちょっとハシシを吸たりすると、再びアルゼンチン人やツーリストの振りを続ける。数年前から彼らはここにやって来るようになった。そして中世と現代が交わるこの街の路地の間に居場所を作り出し、音楽を奏で始めた。許可も求めず、誰にも知らせず、ここで、容赦なくカメラ―これはまたもやモロッコ人やアルジェリア人に盗まれてしまう―のシャッターをカシャカシャ切りまくる何千というガイジンの前で、音を混ぜ合わせて混血させるために、腰を落ち着けるようなになっていた。ギターを取り出し、第一世界の路地で自分たちの音楽を歌い始めた。そして街はそのことに気付くようになっていった。何かを持って来たようには見えなかった彼らは、ありとあらゆるものを持って来たのだ。

 そして今、外から輸入されてきた歌の市場が立つのは、ラ・ランブラの地下鉄、サン・ジャウマ広場、トリッピー広場、時にはバリオ・チノ。そうしたステージでは、外の世界に自分たちの音を聞かせようとしているバルセロナのメスティソ・ロックに出会う。音楽のミックスの中に未来があるとすれば、それがバルセロナの通りにあることは確かだ。アンダーグラウンドな動きで、メイン・ストリームではないし、新聞にも載らないし、何百万ユーロが動くわけでもない。でも、そこでは、それほど遠くない未来においては一番魅力的なミクスチャー・サウンドになるはずの音が生まれつつある。ゴシック地区という漏斗の中に注ぎ込まれた三つの世界は貴重な任務を遂行しているのだ。なんのために音楽を探しに外へ出て行かなきゃならないんだ? 奴らが音楽を持ち込んできて、紙なし(sin papel) [1]の奴らが作った音楽が行列をなしているっていうのに。NO [2]は、そんな音の絡み合いの中に身を投じた。やれやれ。

ラジオ・チャンゴ

「…で、コリファタとは何か? コリファタとは? ラ・コリファタはアルゼンチンのラジオで、アルゼンチンの音楽を非合法に編集したものだ。」2005年4月に発売された 『ラジオチャンゴ・プントコム アニェホ・レセルバ Radiochango.com Añejo Reserva』で聴くことができる。このサイトは5年に渡って「有名なバンドの支援で」若いバンドを世に出してきたと言う。月に50万人もがこのサイトを訪れている。「この4年間、世界的な政治経済のシステムが機能不全に陥っていることを告発してきたんだ。主張がはっきりしているアーティストたちのテキストを使って説明しながらね。」と、フェア・トレードについて分かり易い説明文が付いて来るCDにはこう書いてある。マヌ・チャオがこの地区に引っ越して来たのはもう10年近く前だ。そして―メスティソ・ロックの誕生が彼の功績ではないとしても―その頃から事態は加速し始めた。しかし、そうした動きは以前から、ここが良い港として知られていた何千年も前からあった。つまり、それはこういうことだ。ちょっと有名な人が引っ越して来て、みんなが挨拶しようと近づく。彼に対する共感とか、他の奴らに自慢話ができるとかいうことで、そこに集まるようになり、やがて自慢された奴も自分もと考えてやって来る。こうしてこの一風変わった存在は、生まれつつあった現象の触媒となったのだ。

 アルゼンチン人のカリム・ベルドジョウディは木曜日のニューヨーク―カタルーニャの夜で最もミクスチャー色が強いのディスコ・バーの一つ―を取り仕切っている。そこでは、少し前にソマ・ラサ Soma Raza、セネガル人の最強ラッパーダラー・ジェー Daraa Jやディージェー・エバ・ア・トド・コロール DJ Eva a Todo Colorが演奏した。別のアルゼンチン人アルトゥーロ―この数日の間NOにとっては、これ以上ない贅沢なガイド役を務めてくれることになる―は、 アルゼンチンにバンドを連れて行こうと動き始めたところだ。数ヶ月前には、エル・テアトロで演奏したネグ・ゴリアク Negu Gorriak の元メンバーフェルミン・ムグルサ Fermin Muguruzaと一緒に旅をした。次はメスティソ・ロックの女王アンパラノイア Amparanoiaになるはずだ。カリムが、アルジェリア人とメンドゥーサ出身のアルゼンチン人両親の間に生まれたミックスであることは余り知られていない。この二人のアルゼンチン人は二人が現在いるサン・ジャウマ広場にある狭い一室は、トリッピー広場の路地にあり、マヌが時々カジョスやパパ・ブラボ [3]を食べに来るというバル・ビダソアの近くだ。

 現在のメスティソ・ロックの最も美味な部分は、豊富な言語の中で偶然混ざり合ったリズムで出来ている。そして偉大なパンク精神。「そうだ、後でビールでも飲もうぜ。」と、ムチャチート・ボンバ・インフィエルノ Muchachito Bomba Infiernoのジャイロが言う。住宅地リュクマジョールでショーを始めるところだった。ムチャチートの音楽はルンバとフラメンコにソウル、ブルースヤレゲエを混ぜたもので「ルンバ・ボクシング」と呼ばれている。演奏中に壁画を描くティトの手助けで、作為も努力もなく自然と生まれたものだ。またオホス・デ・ブルッホ Ojos de Brujo(彼らのレーベルラ・ファブリカ・デ・コローレス La Fábrica de Colores からバモス・ケ・ノス・バモス Vamos que nos vamosは出た)のマリーナの深みのある声の中ではフラメンコにヒップホップが混ざり合い、カタルーニャとブラジルが交差している。マカコ Macacoのルンバは三大陸の要素が全て含んでいる。グラナダ出身のアンパラノイアは4人のキューバ人4人とブルガリア人1人から栄養をもらっているし、キンキ・ビート Kinky Beatやチェブ・バロウスキ Cheb Balowskiのメンバーはアフリカにまで達している。ルンバルー Lumbalúはカンドンベやコロンビアの音楽をもたらし、シバ・サウンド Shiva Soundの半神半人は額に第三の目がある。

 アルゼンチン人にコロンビア人が二人加わったのがマル・デ・プラタ [4]のチェ・スダカChe Sudakaだ。ゴー・レム・システム Go.Lem Systemには、アルゼンチン人(そのうちの1人はFun Peopleとアメリカ合衆国ツアーに行ったことがある)、ブラジル人、スペイン人が混在している。「音楽的には、俺たちはあらゆるものから影響を受けている。タンゴ、マンボ、ソン、ヒップホップ、ジャズ、ロック、錬金術、詩、絵画、社会運動、性にまつわる運動、言語、訛り、夢見ること。」と彼らは言う。そしてアルコール・フィノ Alcohol Finoは、アルゼンチン人、コロンビア人、ベネズエラ人、ウルグアイ人、スペイン人、日本人の混成で、ドイツの市場で受けている。

 アフリカからあっちこっちを回ってるやって来たのがニノ・ガリッサ Nino GalissaとそのCD『Mindjer』。08001の驚くべきプロジェクト『ラバル・テ・ジョイア』Raval ta Joiaは、ギニア、モロッコ、フランス、カリフォルニア、バルセロナ、ブエノスアイレスが集まったもので、コンスタンティーナ Constantinaのボーカリスト、アディエン・クロウフルが際立っている。08001のプロデューサー、フリアンが言うように「彼のことはほとんど知られていないが、彼が歌えばそれ以上何も知る必要はないよ。」エレクトリカルなベースがあって、世界中の歌声に地元のバンド、そしてバックにはサウンドシステム。バルセロナは輸出向きになった。

近所の奴ら

 薬のことをトリッピーというところから、ゴシック地区のジョージ・オーウェル広場に付けられたあだ名は来ている。この広場を見つけるのは容易なことではない。ここはフェニキア時代からストリート・ミュージシャンたちの場所で、ゴシック地区の中心にある。2、3年前に政府は曲がり角ごとにカメラを設置した。多分「ビッグ・ブラザー」に敬意を表してのことだろうが、禁止時間帯に演奏する者を告発している。妄想と人々のざわめきの間に地下世界が息づくところ。それがアルゼンチンのチェ・スダカのファーストCDのタイトル『トリッピー・タウン Torippie Town』で、ラジオ・ベンバ Radio Bembaのコリファタに参加した後で製作した。このプロジェクトの参加者には、未だにマヌと一緒にいる唯一の元マノ・ネグラガンビートがいた。ガンビートは1994年にマヌがコロンビアを旅した列車に乗っていた。ここ2回ほどマヌがアルゼンチンに旅行したときも、アルゼンチンのネコチェア出身の妻と一緒にやって来た。

 1年半前にラジオ・ベンバが休止してから、オスピタレー [5]に録音スタジオを置いた。「マヌがブレイクを取ったから、働かなきゃ行けなくなっちまったよ。」とガンビートは笑って、カタルーニャの春の爽やかな夜にNOを自分のスタジオへ迎え入れた。もし道で彼とすれ違ったら、大抵の人は歩道を変えるだろう(もし歩道がなかったとしても)。なぜならガンビートは、まるで彼がパリの道端で弾いていたコントラバスのみたいに、巨大で、エネルギッシュで挑発的だから。彼がチェ・スダカをメスティソ・ロックの「アメリカン・アイドル」に参入させた。二枚目のCD『アレルタ・ビオッルツァ Alerta Bihotza』のための舞台のお膳立てまでし、このCDはK Produccionesから出ることになる。今のところガンビートは、エレクトリカルな音をベースに、サウンドシステムやDJの音を多用したピラータス・ウルバーノス Pratas Urbanosの「CD?」を出すことを考えている。「自分のスタジオに音楽をアップするためのインターネットを取り付けたいんだ。マヌ・チャオやマノ・ネグラの海賊版コピーが1万ぐらいあるんだからね。」と語る。6年前にアルゼンチン人の妻からマテ茶を飲む習慣を教えてもらった。彼女のために、グエル公園から数メートルのところにあるオクパ [6]の家ラ・モンターニャに行った。そこら中にタトゥーが施された家は、彼がテニス選手ラファエル・ナダルに負けないくらいのエネルギーでカタルーニャを駆け巡った後の定住場所だ。

 一日後、チェ・スダカの面々はNOと話すためにサン・ジャウマ広場にいる。他のドレッドヘアの奴らも自分の話をしようと近づいて来る。なんと、マル・デ・プラタの奴らは演奏しようと長距離バスでやってきた!バルセロナへ非合法に到着したものの一週間で喧嘩。そのうちの二人がチェ・スダカを作った。『Alerta Bihotza』にはフェルミンのバスク語、ヤシヌ(チェブ・バロウスキ)のアラブ語、ガンビートのフランス語が入っている。アルゼンチン人てことは、他の奴らと同じで非合法ってことだ。でも俺たちはヨーロッパ人に見えるから、そんなにひどい目には合わない。俺たちは他の移民仲間の代わりに話すことができるんだ。」とボーカル・ギターのレオは語る。3年間でフランス、イタリア、ベルギー、ドイツ、スイス、オーストリアでやったライブは200回。外に出て行きたかったが紙がなかった。「ガンビートと一緒にやれたことは自慢に思ってる。俺たちはガキの頃に、テレビに映る彼を見てたんだ。」とレオは言う。

 「ベニ、こいつらを記事にしてやってくれよ。」とアルトゥーロが持ちかけてくる。太陽が照りつける日だったが、ゴシック地区は一面が陰で覆われている。「こいつら」はマニャナ・メ・カント Mañana Me Chantoの面々で、アメリカ合衆国ツアーから戻って来たところだ。「コンサートは1つしか決まってなかったけど、14回も演奏したよ。」と彼らは語る。話をまとめるとこうだ。チリ人のミュージシャンでゴー・レム・システムやバトゥケロス・デ・カイエ Batuqueros de Calleと一緒に演奏していた。住む場所を探しているときに、スイス人のトランぺット奏者と知り合い、一枚目のCDを録ってドイツ、スイス、フランス、スペイン、モロッコ、モーリタニアを巡るツアーに出た。「サハラ砂漠を2台の古いトラックで横断し、新しい曲を作ったけど、CDが出ることはなかった。パソコンが壊れたんだ。」そして出来たマニャナ・メ・カントにも、モロッコ、チリ、ラ・パンパの人々がいる。「でも、海外に行くのには馴れていない。バルセロナが俺たちの家だ。退屈でも、家にいるのが好きなんだ。」

お隣さん

「ナターチャ/私は東から来た/とっても明るい肌の色/私は市場/私の紙は水のようなもの」とアンパラノイアのアンパロ・サンチェは『ラジオチャンゴ』で歌っている。この曲を自分のCD『レベルディア Rebeldia』の中では、8月にはブエノスアイレスにいるのよという喜びで歌っている。アンパロはメスティーソ・ロックの女王のあだ名を持つ。マヌは彼女とムニェコ Muñeco(カマグエイのキューバ人)とは、二人がマドリッドに住んでいた頃にコラボレートしたことがある。アンパラノイアは自分のバンドと一緒にアメリカ合衆国に入国することができない。でも、できないなら、行きたくないと思っている。「私は紙の問題でバンドのメンバーを変えるなんてことはしない。」と、キューバ人4人とブルガリア人1人をメンバーに持つ彼女は言う。ルンバからバルカン音楽まで、ジプシーの音楽を取り入れて激しいロックに変える。そのCDにはマヌとガンビートが参加した。1月にはBBC3のワールド・ミュージック・アワードを受賞した。

 少し前から、シッチェスから数キロのところにあるサン・ペレ・ダ・リバスに住んでいる。「国境は閉じたり開いたりする。外から来た他の文化は、私たちの文化をさらに強固なものにしてくれるのよ。ヨーロッパにはまだ連帯の動きがあることに驚かされるわ。」と、複数の言語で歌うアンパロは言う。「言語は豊かさであって、生命の音よ。」ラテンアメリカ人が経営するシッチェスの小さなバルで言う。『Rebeldia』には、陽気さともに挑発的なフレーズが表れる。「女性を尊敬している振りをしましょう。それは習慣の問題。」チアパスからメキシコシティに行く途中で、サパティスタの旗にそのフレーズがあるのを見たと言う。

 「お隣さんを見た?」と、アンパロという名の別の女性が訊かれている。彼女はアセ・コロール Hace Colorのプロデューサーだ。「いいえ。もし印が出てないなら、いないに違いないわ。」と言う。バルセロナの古いプロレタリアートの地区の一つポプラ・ノウに、マヌの次のスタジオはできる予定だ。マヌはアマドウとマリアム Amadou y Mariamの二人組のコンサートから戻ってきたところで、この盲目のセネガル人はフランスで一万枚を超えるCDを売り上げた。出かける前に、マヌは階段にペンキを塗っていた。今戻ってきたので、続きに戻れるだろう。

 ジョンルとアンパロはチェブ・バロウスキを担当していて、キンキ・ビートと一緒にメキシコ、ニューヨーク、ヨーロッパ、アフリカを回ってきたところだ。チェブ・バロウスキの一枚目のCDは『バルツェローナ Bartzeloona』というタイトルで、2枚目の『プティネー Potiner』 は世界中で販売された。3枚目となる『プロウ・プロン(夢中にさせる音楽)Plou plom(musiqueta que enamora)』はヨーロッパで同時に発売され、モロッコ、アルジェリア、フィンランド、ベルギー、ドイツ、オランダ、ヨルダンを回る世界ツアーをスタートさせた。チェブ・バロウスキは、ヤシヌ・ベラセネ・ベレが率いるアルジェリアとカタルーニャのリズムのミックスだ。アセ・コロールのアンパロは、アスナール [7]の政権の間、フェルミン(バスクの活動家だったことで)関連のことは荒れていたけど、サパテロ [8]になって物事は落ち着いていると語る。「私たちはメスティサッへ(混合)の渦の中にいるの。今、マヌのおかげで、以前より動きがあるけど、この場所はいつもそうだったのよ。ラテンアメリカ、アフリカ、アジアが地区に息づいていて、無政府状態の時代から自主管理という方針が積み重なっているのよ。」(知らない人のために言っておくと、バルセロナは無政府主義がほぼ一年間に渡って権力の座に着いていたのだ。)

 キンキ・ビートはメスティソの参考文献となった。完成したばかりの1枚目のCD『メイド・イン・バルナ Made in Barna』はロックステディ、レゲエ、最も野性的なパンクの間を行ったり来たりしている。カスバ・ミュージッック Kasba Musicが製作し、カー・インドゥストリア K Industriaが販売している。カスバ・ミュージックはラジオ・ベンバの面々、コロール・ウマーノ Color Humano、ドゥスミンゲッツ Dusminguet、アセ・コロールのジョンル、カー・インドゥストリアのエンリック・ペダスコイが立ち上げた新しいレーベルだ。またアセ・コロールには、フォーク革命の嵐の中に楽器が混在しているラ・カラウ La Carrauがいるし、イニゴ・ムグルサ(元ネグ・ゴリアク)が指揮するサガロイ Sagarroiは生々しいポスト・ハードコアを進化させて陽気なレゲエ・コアを作りだした。最新のCDは『トゥールーズ Toulouse』というタイトルで、文化のるつぼ南フランスの街へのオマージュだ。何か理由があるのだろう、そのCDのケースのふたには、メスティサッへの模範アンソニー・クインがいる。

地区の奴ら

 街を巡るメスティソ・バンドの浮上、一年中いる観光客、ソナール Sonarやプリマベイラ・サウンド Primavera Soundのようなフェスティバルは、街を流行の中心地にした。「バルセロナはヨーロッパへの玄関だ。世界市場を考えてCDを発売するものもいる。ヨーロッパには、輸出向きのバンドのためのサーキットがあるんだ。」とカー・インドゥストリアのエンリックは語る。オホス・デ・ブルッホは15万枚以上のCDを売り上げ、ムチャチートはスペインで2万枚を売り上げた。「アングロサクソンのロックには明らかな主人がいる。アメリカ合衆国と英国だ。他の音に賭けなければ。」とアルゼンチン人の母親を持つこのカタルーニャ人は言う。さて、未来には何が起こるのか?「罠があるかもしれない。だんだんグループが増え、オファーも増えるが、俺たちのやり方は変わらない。大手は俺たちに背を向ける。ラジオやテレビには、例えお金を払ったって出してはもらえない。CDのプロモーション用に9000ユーロよこして、俺たちをからかうんだ。今のところ、これらのバンドを輸出するつもりでいる。文化的にとても豊かなアルゼンチンと一緒に仕事をしたいと思っている。費用について皆目見当がつかないから、むこうでどうやって発売したらいいのか分からないんだ。唯一の方法はライセンス契約をして、全て任せることだ。」

 アルゼンチン人のアルトゥーロは自転車でやって来るが、最近の活動に少し不満な様子だ。自転車をバルセロネータ駅の脇に縛りつけたが、その駅はマドリッドのエスペランサ駅ではないし、似ても似つかない。マカコのボーカル、ダニ・カルボネイをバルセロネータのあるバルで待っている。「いつでも移民は来ていた。でも最近はうっとおしくなった。」とダニは語る。彼の音楽的な根っこはブラジルやキューバまで届き、そこから彼のバンドのメンバーもやって来ている。ダニは初期のオホス・デ・ブルッホでベースを弾いていたが、その後そこを離れた。「集団ってものを信じてないんだ。誰かが決断しなければならない。」と言う。マカコと一緒にムンド・スルド Mundo Zurdoというレーベルを作った。「なぜならフランコ [9]の時代、左利きの人は右手で書くことを強制されたから。それにうちの家族はあらゆる意味で左なんだ。」今は道端の音はリマスタリングされている。おそらく、新しいのは、音楽的なものだけではなく、これらの音を寄せ集めてロックのスタイルに当てはめる能力だろう。どんなシーンもだれてしまうものだから、いつでも論争が必要だ。「マヌ・チャオはゴッドファーザーなんかじゃない。それは大嘘だ。」とダニは反論する。「俺は手助けしてもらわなかったし、ここにはいつでもフュージョンがあったんだ。」

 別の小さいメスティソのレーベル、エル・ベンティラドール El Ventiladorのハビは、こう考える。「ここで俺たちは別の方法で物事を行っているんだ。俺たちが望んでいるのは、お金を稼ぐより、楽しく過ごすことだ。この動きは通りから浮かび上がって来たが、プロ化してしまった。でも、ここで楽しさを取り戻したいと思っている。」と言って、論争の一方の側に付いた。実際のところ、ここまできたら、論争は大して重要なことではない。「ここでマヌは神のようなものだ。国際的なレーベルおしっこを引っかけたのに、奴らは彼を追いかけてきた。彼は大衆を虜にしているからね。絶頂期で、大変革だ。通りの楽器を持ち歩き始めると、ガンビートと演奏するために外に出た。膨張していく波を誘発したからどんどん成長して、あっという間に、300人が5000人になった。」そう、それぞれが自分のやり方でそこに至ったのだ。

始まり

 爆発は、1992年バルセロナでオリンピック関連の文化イベントが行われる間に、始まった。ピーター・ガブリエルのワールド・ミュージックの後に、「スペインはいろいろな民族の流れを受け入れた。バルセロナは一日で世界の音楽と張り合うようになった。」とオホス・デ・ブルッホのプロデューサーハビ・サルコはNOに語る。でも、ワールド・ミュージックっていうのは、おかしな概念だ。もしそれが世界の音楽だとするなら、それ以外は他の惑星の音楽てこと? 誰にも知らせず、マスコミに出ることもなく、たいした騒ぎ(騒ぎは通りにある)もなく、90年代から新しい移民の波がやって来た。そんな中で、ハビと仲間たちはクラブ・メスティッソ Club Mestizoを立ち上げた。「バンドの奴らと一緒に、俺たちは音楽を合法化するんだ。」とハビは自慢する。

 マヌがこの地区に到着すると、動きが始まり、その場所から人が溢れて、希望が広がっていった。メスティソ・プロモは、ロス・ファブロソス・カディリャ Los Fabulosos Cadillas、 マルディタ・ベシンダ Mardita Vecindad、 マノ・ネグラで絶頂を迎えた。ラテンアメリカは自分たちの原点を再発見した。Color Humanoはマドリッドで、ドゥスミンゲッツはバルセロナ、サルジェント・ガルシア Sargent Garciaはフランスで爆発した。98年の終わり、マカコはまだ荒削りで、バルセロナの別の片隅ではジョンルがアセ・コロールを創設した。そのころジャーナリストが現れて―彼らはいつも少し遅れてやって来て、自分たちがでっち上げられなかったことを秩序付けようするのだ―全部にメスティソという札を付けた。「ワールド・ミュージック」と取り替えるには悪くない。でも公正ではないままだった。メスティソとやらの中ではいつも、ある染色体が優位に立っている(金髪が出て来たり、浅黒い肌が出て来たり、日本人が出て来たり)。もちろん、たくさんのものを混ぜるリスクは、小石を見分けられなくなることだ。リスクと効能。奇妙なのは、トニーノ・カロトーネ Tonino Carotone(『メ・カゴ・エン・エル・アモール Me cago en el amor』)のようにあまりメスティソ的でないものも、マスコミは含めていることだ。1995年から2000年にかけて、移民の流れは落ち着いた。1998年の後に、(5人の大統領に追い出された)アルゼンチン人の波が現れた。モロッコ人たちに混じってサワルマを食べ、ナイジェリア人に混じって金を売り、アルジェリア人に混じってサッカーを楽しみ、しかしそれほどは混じり合わなかった。

 「ラテンアメリカのアーティストは、大きいレーベルにあまり馴染んでいなかった。」とハビは語る。「マヌだけが平然と馬鹿げたことをやることができた。そして小さなバンドを支援し始めた。彼らをプロデュースしたり、インタビューで彼らのことを話たりして。」とハビは言う。これらは元マノ・ネグラの呼びかけで照らされているように見える。エレクトロニクスミュージック、チルアウト、サウンドシステムが現れた。バルセロナはニューヨーク、イギリス、パリ、アムステルダムやベルリン並みに、音楽の混合を誘発している。もしかしたらそれ以上かもしれない。メスティソ・ロックのブームは2002から2005年の間だ。オホス・デ・ブルッホが『ベンゲ Vengue』、『バリ Bari』とアルゼンチンでは未発売のリミックスで、ヨーロッパ中に広まった。ラ・ファブリカ・デ・コロールという共同のレーベルを立ち上げて、絵を描いてもらうためにグラナダのグラフィティエル・ニョース・デ・ラス・ピントゥーラス El Niños de las Pinturasを呼び寄せる。フラメンコとヒップホップのミックスがルンバに恋をした。ゴシック地区のバルがムチャチート・ボンバ・インフィエルノのジャイロが育っていくのを見ている間に。それはまだ始まったばかりだ。

パヒナ12―マリアノ・ブレフマン

関連アーティスト: Che Sudaka, Go Lem System, Ojos de Brujo, Cheb Balowski, Fermin Muguruza, Macaco, Manu Chao, Soma Raza, Lumbalú, La Kinky Beat, 08001, Amparanoïa, Amadou & Mariam, Color Humano, Dusminguet, Mano Negra, Sergent Garcia, Muchachito Bomba Infierno, Gambeat, Mañana Me Chanto

補足

[1] 紙とは滞在許可証のことで、紙なしとは滞在許可証を持たない不法移民をさす

[2] さっきから出て来るこのNOというのはアルゼンチンの新聞パヒナ12 Pagina/12の別冊雑誌のこと

[3] モツの煮込み料理とポテトフライのタバスコソース添え

[4] アルゼンチン東部の都市

[5] バルセロナの隣の市

[6] 住人のいない家に勝手に住み着くこと。または住み着いてる人たちのこと

[7] PP(国民党)党首として1996年5月から2004年4月まで政権を担当

[8] PSEO(社会党)党首。マドリッドの列車爆破テロ直後の選挙でPP党首のラホイを破る

[9] スペイン市民戦争に勝利し、スペインに軍事独裁政権を敷く

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