マノ・ネグラが生まれたのは80年代後半。マヌ・チャオが、その弟アントニオが、いとこのサンティアゴ・カサリエゴが、そして他友人たちもともに、自分たちの経験や音楽的過去の、その集大成たるバンドを結成する必要を感じたときだった。
ファーストアルバムは1988年、彼らの音楽性をとりわけ特徴づけるタイトル「パチャンカ [1]」として、ロス・カラヨスの頃からの友人であるフランソワ・ハジディ・ラザロ [2]のレーベル・ブーシュリーから出された。これは聴衆から大いに受け入れられた。とはいえ、彼らのライブで見られるようなエネルギーを凝縮出来たわけではなかったようだが… [3]。
さらに飛躍した成功を獲得するには、フランス国境を越えねばならない、勝利を得るために。この思いからかのバージン・レコードと契約する。これにはバンドがレーベルと対等で話し合えること、また独立した権利を持つことがはっきり明言されていた。 「ピュータズ・フィーバー [4](この名は、このレーベル変更についてメンバー幾人かが乗り気ではないというのを示してもいる)」が1989年にリリースされ、マノ・ネグラの名を、最高のバンドの一つとして世界中に広めることとなった。
マノ・ネグラはイギー・ポップの前座として合衆国制覇に乗り出す。だが結果はメンバーにとってはがっかりなものだった。彼らの音は、既にラテン・カルチャーに密接に結びついていたのだ。 1991年キング・オブ・ボンゴ [5]がリリースされた。北米で刻み込まれた経験がここには見られる。
引き続き日本でのコンサート・ツアーが行われ(8コンサートを数える)、バンドはその最初で最後のオフィシャル・ライブを録音・リリースする。「パチンコ地獄 [6] だ。ここでようやく、バンドのライブでの底力を感じる事が出来る。
1992年、初のラテン・アメリカでの大いなる冒険に、カルゴ・ツアーで打って出る年だ。貨物船に乗りこんで港から港へと、その音楽を伝播していく。
次の年にはさらなる冒険を試みた。コロンビアの廃線を利用しその路線のありとあらゆる村や町、ゲリラやドラッグ・ディーラー、軍隊の前で演奏して廻ろうと言うのだ。この冒険はマヌの父であるラモン・チャオによって本 [7]に纏められている。 1994年リリースのその最終傑作「カサ・バビロン [8]には、この旅の経験が強く影響を与えていることが、非常に分かりやすく見てとれる。この素晴らしいアルバムは、主にはマヌの構成による作品となった。これはほぼソロ作品と言っても良いのは、グループはコロンビアでの旅の間に「気楽さ」を失ってしまったことによる。この時以来、彼らはいずれも別々の歩みを辿ることになったのだ…。
ディスコグラフィー
Records - Mano Negra [up]
Patchanka (1988 Boucherie - Album)
Patchanka (1988 Virgin - Re-edition)
Puta’s Fever (1989 Virgin - Album)
King of Bongo (1991 Virgin - Album)
Amerika Perdida (1991 Virgin - Best Of)
In the Hell of Patchinko (1992 Virgin - Live)
Bande Originale du Livre (1994 Virgin - EP)
Casa Babylon (1994 Virgin - Album)
The Best Of (1998 Virgin - Best Of)
Out of Time (2005 EMI - Double DVD)
Lo Mejor de la Mano Negra (2005 EMI - Double Best Of / Live)
おもなコラボレーション
Fuerza Vol.1 (2000 Virgin - Compilation)
関連アーティスト
Hot Pants
Manu Chao
P18
Flor del Fango
Carlos de Nicaragua
Fidel Nadal
関連リンク
www.la-mano-negra.com
www.out-of-time.fr
www.audiokat.com/artistas.asp?aid=00000072
RADIOCHANGO.JP [日本語]